大判例

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東京高等裁判所 昭和61年(ラ)655号 決定

抗告人 張桂琴

主文

一  原審判を取り消す。

二  抗告人が次のとおり就籍することを許可する。

本籍 東京都千代田区○町×丁目×番地

氏名 佐藤琴美

生年月日 昭和19年12月31日

父母の氏名 不詳

父母との続柄 女

理由

本件抗告の趣旨は主文第一、二項同旨の裁判を求めるというのであり、抗告の理由は「原審判は抗告人を日本国籍を有する者と認めるには状況証拠が乏しいとして抗告人の申立てを却下したが、養父張国貴の1986年3月10日付け供述書には、抗告人は拾われた時に日本式の服を着ていたこと、張は抗告人が日本人の子であることを他人に知られるのを恐れ転居を繰り返したことの記載があること、中国政府は抗告人に孤児証明書を発行していないけれども、抗告人を第三次訪日団に参加させ、更に永住帰国を認めていることからすれば、抗告人を日本人孤児と認めていることは自明であること、当時の満洲においても父が日本人で母が中国人である場合には捨て子するようなことは考えられず、父が中国人で母が日本人であるということは敗戦前の社会の状況から考えられないこと、捨て子する際にタオルか毛布でくるむのは日本人であつて中国人はしないこと、以上の事実から抗告人の父母は日本人であつて抗告人は日本国籍を有する者と認めることができるから、原審判を取り消し抗告人申立てどおりの就籍許可の裁判を求める。」というのである。

そこで判断するに、原審記録編綴の各資料、これらを補うため抗告代理人が当審に提出したかなりの数の各種資料、特に抗告人の養父張国貴の1986年12月13日付け回答書及び1987年2月8日付けのその補充書、当審における抗告人本人審問の結果並びに当裁判所の職権調査の結果を総合すると、抗告人は、中国旧満洲地区において終戦の前年に日本人を両親として出生し、翌昭和20年8月には生後約10箇月にして終戦前後の混乱に巻き込まれ、同月15日ころ長春市(当時は新京市)○○○付近の路上に日本式の服を着せられ日本文字の書かれた毛布にくるまれて放置されていたところを周香山に拾われ同人の甥の張国貴に預けられたこと、張は、当時妻朱玉芳との間に子がなかつたので抗告人を養育することにし、同人を1944年(昭和19年)12月31日に妻玉芳との間に出生した子として届け出て、昭和26年には小学校へ、昭和32年には中学校へ進学させたこと、抗告人は、昭和34年に就職したが、その年養父張の母が危篤状態となつた際に、同人から抗告人が終戦直後長春市○○○で拾われた日本人孤児であると聞かされたこと、中国黒龍江省勃利県公証処は、昭和56年(1981年)11月1日張国貴及び朱玉芳が同公証処公証員に対し抗告人が日本人の子である旨陳述したことを証明する形で抗告人を日本人孤児として公証したこと、抗告人は中国政府(公安局)から中国残留日本人孤児として訪日調査団に参加するよう勧められ、昭和58年2月第3次訪日調査団の一員として来日し面接調査を受けたが身元を確認するまでには至らなかつたことが認められる。このように抗告人は日本人を両親として出生した子であるから、父親との間に法律上の父子関係が成立しておれば旧国籍法第1条により、該父子関係が成立していなくても同法第3条により、抗告人につき出生による日本国籍の取得を認めることができる。

次に、一件記録によると、抗告人は昭和58年(1983年)2月9日中国政府から護照(パスポート)の発行を受けていることが認められる。しかし右護照の発行は、中国政府が抗告人を事実上中国国民として扱つている証左となるけれども、抗告人が入籍証書を取得したことは一件記録によつても認められないから、抗告人が中国政府によつて同国民として扱われることとなつたのは、抗告人が自らの志望によつて中国国籍取得の申請をしたことによるものではなく、乳児のころから中国人の子として養育されてきたことによる当然の成行きにすぎないものと推認することができるから、抗告人は、中国政府から護照の発行を受けたことによつて日本国籍を喪失したものとすることはできない。

以上のとおり、抗告人は日本国籍を有する者であるが、いまだ身元が判明せず本籍が不明であるから抗告人の就籍の申立てはこれを許可すべきものというべきである。したがつて右申立てを却下した原審判は相当ではなく本件即時抗告は理由があるから特別家事審判規則第1条、家事審判規則第19条第2項により原審判を取り消し抗告人に就籍を許可することとするが、就籍事項は、本籍及び氏名は抗告人の希望するところを不相当とする理由はないから申立てどおりとし、生年月日については前記認定事実にかんがみ昭和19年12月31日とすることとし、父母の氏名、父母との続柄は明らかでないから、父母の氏名は不詳、父母との続柄は女とする。

よつて、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 賀集唱 裁判官 安國種彦 伊藤剛)

抗告の理由

第1就籍許可申立に対する却下審判

1 抗告人の申立に係る東京家庭裁判所昭和61年(家)第5581号就籍許可申立事件について、同家庭裁判所は、昭和61年10月13日抗告人に対して本件申立を却下する審判をし、同10月15日抗告人代理人に対して通知があった。

2 右審判理由は、状況証拠に乏しく就籍許可申立を認容することは出来ないと言うにある。しかし、この審判は、次に述べる理由により、明らかに申立内容を誤解し、また事実認定、証拠についての判断をも誤っているほか、数々の手続き上のかしが存在する。

第2原審への申立に至る事実経過

〈1〉 1944年12月31日ころ抗告人出生

〈2〉 1945年秋(8月)ころ敗戦後の大混乱にごったがえしていた旧満洲の新京市(現在の長春市)で養父張国貴の叔父周香山に拾われる。

拾われた当時抗告人は日本式の衣服を身につけていた。

〈3〉 養父の叔父から養父母(義母の名前は朱玉芳)に渡される。

〈4〉 養父母は申立人が日本人であることが他の中国人に察知されることを恐れ、転居を繰り返すほか、日本式の衣服を焼却。

〈5〉 1952年頃、抗告人は日本人の子供である旨を打ち明けられる。

〈6〉 1978年末ころから、抗告人は厚生省に対して肉親捜しを依頼。

〈7〉 第3次訪日団の一員として1983年2月来日。母ではないかと思われる人と、面接するが決め手に欠け、身元未判明のまま中国に「帰る」。

〈8〉 1983年抗告人は厚生省援護局作成のいわゆる「孤児名簿」に登載される。

〈9〉 1986年5月12日東京家庭裁判所に就籍許可申立

〈10〉 1986年6月14日厚生省ルート(帰国旅費については国費支給)で抗告人一家は永住帰国(夫の外子供3人)。埼玉県所沢市の中国残留孤児定住促進センターで本年9月末まで研修を受ける。

〈11〉 1986年9月4日調査官面接。就籍氏名を「金永久子」から「日本人らしい」氏名に代えるよう示唆される。

〈12〉 1986年9月6日就籍による氏名を「佐藤琴美」に変更する旨の上申書提出

〈13〉 1986年10月より現在の住所地、葛飾区に親子5人で居住中。

〈14〉 1986年10月13日審判却下決定(抗告人代理人への告知は10月15日)

第3原審の判断の問題点

1 事実認定の点についての抗告人の意見

〈1〉 就籍に当たっては、先ず抗告人が日本国籍を取得していること、そしてその取得した日本国籍を失っていないことが認定される必要がある。日本国籍が取得されたか否かは、抗告人が生まれた当時の「国籍法」の定める要件があるかどうかによる訳である。

〈2〉 本審判では、抗告人の出生当時の日本国籍取得事実が認定できないとされた。審判官が説くところは抗告人の父母が如何なる者であるかが全く不明であり、他に抗告人が『日本国籍を取得したことを認めるに足る資料も皆無である』である。と言うのである。この点については審判書は『申立人が保護された当時、新京市付近では、日本の敗戦にともない混乱していたことは公知の事実と言って良く、このため日本人難民などによる捨子があったであろうことは十分推測しうるところであるから、これと上記認定事実から認め得る事実とを併せ考えると、申立人が日本人の子である可能性があることはこれを否定することは出来ない』としながらその一方で、

『申立人については、ただタオル乃至毛布でくるまれて路上に放置されていたというだけであって(申立人は、本件につき質問書に答えて、保護された際着衣は日本式のものであったと聞いているとも述べているが、これは申立人が、質問書で、「あなたが日本人であることを示す事情があれば詳しく書いて下さい。例;日本の服を来ていた。日本式の家の記憶がある。等」と記載した質問を受けて答えた回答として述べられているものであるところ、他に、養父母らの供述等においても、このようなことは全く触れられていない。また、申立人が述べるその着衣の特徴も具体的には何等明かでなく、結局上記のような申立人の陳述だけでは、申立人が保護された際、日本式の着衣をつけていたということ自体も、事実としてこれを認めるには足りない。』とし、『慎重に検討したが余りにも状況証拠に乏しい本件では(就籍許可申立を)認容することは出来ない』としているのである。

〈3〉 審判官は証拠について抗告人の陳述だけであるとしているが、審判官は弁解することの出来ない書証の見落としをしているのである。抗告人が代理人を通じて原審に提出した、抗告人の養父張国貴の1986年3月10日付け供述書には、その点は全く触れられていないどころか、明確に「日本式の服を来ていた」、しかし「日本人の子供であることが他人に判ることを恐れ」た旨述べられているからである。

〈4〉 また、この養父は現在も存命であって、更に詳しい事情を聞く必要がある場合には、手紙で連絡を取ることも、必要とあらば日本に呼び寄せて事情を聴取することも可能である(現に通常の残留孤児の就籍事件においては東京家庭裁判所においては一般にその様な扱いが為されている)。しかしながら、そのような手続きが必要である旨の示唆は一切原審においては為されていない。寧ろ、就籍の際の日本名について金永久子という余り日本人らしくない名前でよいのかと言う質問をしており、抗告人にとっては許可審判が近く為されることを期待することはできても、審判官自身の審問すらも経ず、しかも調査官面接から1ヶ月程度の期間しかおかずにいきなり却下審判が為されるなどとは予想だに出来ず、「不意打ち」とでも表現すべきものである。およそ「慎重」さなど微塵も感じられないものというべきである。

〈5〉 更に審判書の記載をみる限り、あたかも申し立て代理人が質問書によって、一定の回答を期待して誘導的な質問を敢えて為し、それに抗告人が迎合して答えたと指摘しているようにも思える(しかし日中の文化の相違は、後に述べるように想像以上に大きく、指摘を待たないとそれと認識されないことも非常に多いものである。従って、こうした示唆は真実発見の為にはやむを得ないものと抗告人代理人は理解している。)。

しかし、この日本式の衣服の点は代理人に於て質問書を提出する以前から、抗告人が養父、養祖母から聞いていることであることは記録上明かなことである。代理人による質問書は抗告人が永住帰国の為1986年6月14日に来日した以降、所沢の定着促進センターに入所中の抗告人に宛てて出したものであり、その回答書は抗告人自身によって1986年7月10日付けで書かれ、日本文に翻訳後1986年8月27日付けで代理人を通じて裁判所に提出したものである。

一方、養父の供述書は1986年3月10日付けであり、代理人に於て質問書を送付する以前に書かれていることも明かである。しかも養父は、叔父が日本式の着物を来た抗告人を1945年8月に新京で拾ったが、自分では育てることも出来ず、子供を持っていない養父の事を思い出し、養父の元に抗告人を連れてきたこと、当時の状況から日本人の子供であることが分かると大変なことになるので、回りの人に分からないように転居を繰り返した旨記載しているのである。こうした転居の繰り返しは、比較的転居をせず、土地に対する定着性が強い中国社会の中でも、日本人孤児を引き取った家庭には良くみられる現象である。多くの孤児の審判事例中にこの間の事情が明らかにされてきているが、戦前日本軍及び日本人が中国国民に対してとった残虐窮まりない数々の人間として恥ずべき行為を考えれば、極めて合理的な行動であるというほかはないであろう。

〈6〉 また、もし養父が抗告人が「日本人」であることが分かったら困ると思ったのは何故なのか、審判官が思いを致すならば、容易にこの間の事情を調査することが出来たはずである。調査官面接においてもこの点については別に深く探求された跡はないのである。

少なくとも養父は「日本式の着衣」を見た、或は他に日本的特徴を感じ取っていたことは明かといわねばならない。しかし、養父自身は中国人であり、日本文化に通じていない以上、その「日本式の衣服」が日本においては何という名称(例えばちゃんちゃんこ、浴衣、寝巻、どてら、丹前等)を持つものか表現することは困難である。それがどの様な衣服であったかを探求することが正に必要なはずである。もし、原審の審判官は、そうした名称記載がないことをもって信用するに足りないと考えているのであれば、審判官は次のように問われるべきであろう。「あなたは直ちに種々の中国式その他の外国の歴史的伝統を持つ衣服を特定し名称をあげることが出来るのか。」と。

〈7〉 審判書は中国において、通常の「孤児証明書」が発行されていないことを重視しているようにも思える。しかし、そもそも孤児証明書は、中国中央政府の見解によれば、孤児証明書の発行自体が公証処の権限外にあるものであること、また、孤児の内でも、孤児証明書の発行を受けている者は全体の内の20パーセント乃至30パーセントに過ぎないと言われていること、更に、孤児証明書はある一定の時期、地域においてのみ発行されたことがあるのであって、現在においては全国的に発行が停止されているとのことである。

従って、現に孤児証明書を有しているものを日本人孤児であると認定する場合には何等不合理はないが、孤児証明書の発行を受けていないことをもって、中国政府から、正式に孤児として認定されていない、ということには全くならないことを審判書は見落としているのではないかと思われる。

抗告人については、中国側からは第3次訪日団に参加させ、更にまた永住帰国をさせていることから、日中両国に於て抗告人が日本人孤児であることについてはあまりに当然の前提であり疑いをいれないとの共通の結論に達しているものと言わねばならない。

寧ろ中国中央政府の見解に従えば、孤児証明書を発行した残留孤児以上の確実性を持っていることが証明されていると言い替えてもよいであろう。また、中国大使館に対して抗告人代理人が確かめたところでは(孤児証明書の発行権限が尚あるかどうかは別として)、いわゆる通常の孤児証明書の証明力と抗告人の場合のような形態の孤児証明書(関係者が公証処に於て公証員の前提で供述したことを証明するもの。以下面前供述公証書と言う。)の証明力は、孤児でないものに対しては公証処はそのような面前供述公証書を発行することはないので、証明力は何等変わらないものと考えて差し支えないとのことである。従って、もし孤児性を直接証明する旨の孤児証明書の発行がないことを審判官が重く見たとした場合には、孤児証明書についての重大な誤解があると言わなければならない。

〈8〉 審判官は抗告人の父母がどのような者であったか不明であるとしている。しかし、もし抗告人が中国人同志の間に生まれた子供であれば、1945年8月の時点で抗告人の親の生活関係自体が脅かされるような関係にはない。寧ろ、中国人同士であれば、日本敗戦=解放であり、正に生活は安定するのである。従って抗告人は捨てられる筈がないのである。こういった可能性がないことについては審判官は殆ど具体的な検討を行っていないものである。

また、抗告人の両親の内の一方が仮に日本人で、片方が中国人(日本人でない者)だと仮定しても、

日本人の父親、中国人の母親の場合としたら、日本が敗戦したとしても、家庭生活は中国人たる母のもとであるから安定している筈であり、いきなり敗戦の混乱に巻き込まれることはない。万が一そのような事態にあっても中国人の母または母方の親族によって必ず保護される関係にある(こうした人達も最近就籍を求めるようになっているが、身元は極めて判明し易い。)。従って、捨子をする場合はおよそ考えられない。

次に、日本人の母親、中国人の父親という組合せは、敗戦前の時代状況としては考えられない。また、仮りにそのような組合せがあったとしても、正式の婚姻を為していたとは考え難く、結局父の知れない場合として、子は日本国籍を取得してしまうことになる。

以上のことは当時の中国を知る帰国者にとっては自明の理であり、疑うべくもないことである。

こうした面の検討も少なくとも審判書の上では具体的には為されていない。結局、敗戦後の混乱の中で捨子乃至は置き去りの状態に置かれざるを得ないのは、正に日本人夫婦の間の子供であることを全く見逃しているのである。

〈9〉 更に審判書は「申立人については、ただタオル乃至毛布でくるまれて路上に放置されていたというだけであって」とする。しかし、正にこの点こそが抗告人の日本人性を決定的に基礎づけてしまっているといっても過言ではない。即ち、一見当り前のように思える、赤ん坊或は子供を「ただタオル乃至毛布でくる」むということ自体が、当時の「満洲国」に滞在したことのある帰国者の目からみれば、正に「日本人でなくては絶対にしないこと」なのである。日中の文化の違い、当時の中国人の生活程度に対する考察が全く欠落している。

2 手続き上の問題点について

〈1〉 抗告人が日本にきており、いつでも審判官と会い審判官の誤解を解くことも出来るのに審判官自身は一度も抗告人に面接し、審問することがなかったこと

〈2〉 養父自身の供述を全く無視(見落とし?)していること。養父が存命であり、直接間接に疑問点を確認できるにも拘らずそれをしていないこと

〈3〉 これまで、就籍事件においては許可に至るには証拠が不足しているのではないかという場合には、必ず立証すべき点を促されている。本件ではそれが全く欠落するばかりか、就籍する際の日本名を再三確認しようとするなど、抗告人としては、就籍許可が早晩為されることは確実であり、事案として問題はないと考えていたこと(釈明義務違反)

〈4〉 極めて安易に厚生省、中国政府の孤児としての扱いを一蹴していること(先に述べたところなど、何故抗告人が日本人として両国から扱われてきたかについて深く探求すべきであろう。)

〈5〉 原審に於て申立人は、次の通りの就籍許可を求める旨、申し立てた。

「本籍 東京都千代田区○町×丁目×番地

氏名 佐藤琴美

出生年月日 昭和19年12月31日

父母の氏名 不詳

父母との続柄 女」

ところが、原審が認定した、申立人の就籍許可申立内容は次の通りであると言う。

「本籍 東京都千代田区○町×丁目×番地

氏名 金永久子

出生年月日 昭和19年12月31日

父母との続柄 女」

つまり、氏名「佐藤琴美」として就籍許可を申し立てたのに対して、認定によれば「金永久子」との申立があったとされ、また、父母の氏名「不詳」と申し立てたのに対して、認定によれば、父母の氏名は申し立てられていないことになっている。先ず、氏名の点については、抗告人が就籍許可申立を為した当初は「佐藤琴美」と言う名で就籍を求め、その後抗告人本人の希望により「金永久子」との日本名による就籍を求めていたものである。

しかし、更にその後の昭和61年9月4日の調査官面接(○○調査官)において、調査官より「金永久子」という氏名では「あまり日本人らしくない」のではないかとの指摘があった。そのため、抗告人本人は席上再び「佐藤琴美」という氏名による就籍を求めるに至った。この氏名の変更の点は調査官の報告書に記載されているはずである。

また、抗告人は代理人を通じて昭和61年9月6日付けで自己の氏名を「佐藤琴美」としたい旨の上申書を原裁判所の求めに応じて念の為提出した。

しかるに、原審は抗告人が「金永久子」名で就籍を求めていた旨認定しているものである。この点は審判官の明白な誤解であると言わねばならない。

結局、原審は杜撰な審判と言うほかはない。よって速やかな取消が為されるべきものであるから、抗告の趣旨記載の通りの裁判を求める。

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